バイリンガル、の定義

バイリンガルMCとして活動してきて20年+数年が過ぎた現在も自らが現場でバイリンガル能力を使って仕事をしている中で思うこと、バイリンガルMCレッスンを提供する中で、想うことを少し綴ってみます。

駆け出しのころ、自分を「バイリンガルMC」と勝手に「自称」(笑)し始めた当時から現在に至るまで、私は基本的に、日常生活においては、ほぼバイリンガルです。日本語でも英語でも。仕事上でもプライベートでも、割と日本語と英語がごちゃまぜで、メールに至ってはむしろ英語の入力スピードのほうが早いので、合理化もあってか、英語が理解できる人に対しては日本人であっても、英語で済ませてしまう、、ということをしちゃったりします。

当然、母国語はどちら?と聞かれれば、日本語になるわけですが、バイカルチュアル、という意味においては、どちらかというと、性格的な部分も加味されて、西洋寄りなキャラでした、そして、現在に至るまでそのキャラは、未だ健全でございます。ww

20年前は、バイリンガルMC、と自称したところで、誰も(クライアントも、イベント会社も、自分ですらも、、)、バイリンガルMCって「何を?どんなサービスを基本定義にしているの?」という部分については、とても曖昧でした。

現場での経験を積むにしたがって、モノリンガルの現場では不要なサポートやホスピタリティ、配慮が、バイリンガル現場では必要であることも実感してきました。なので、途中から、バイリンガルMCという肩書も捨てて、「バイリンガル・コミュニケーター」に変更しました。つまり、そうでないと「バイリンガル」である意味がないじゃん、と思ったからです。

10年くらい前には、ポツポツ、とバイリンガルMC、と名乗る司会者が増えてきました。ちょうど、私がレッスンを始めたのも、同じ時期で要望があったことがきっかけでした。

さらにこの数年は、急激にその数は増え、認知もされてきました。

しかし、「バイリンガルMCを雇う、依頼する側」と「バイリンガルMCとして現場に従事する側」には、少なからずギャップが存在する場合もあります。

バイリンガル(二か国語を流ちょうに操る能力を持っている人)なわけだから、通訳も当然できますよね?

という依頼主。

ところが、「日英で原稿ありきで進行をするのがバイリンガルMCですので、通訳はできません」と言うバイリンガルMCも実は多いです。否定はしません。むしろ、その考えは大道、と呼べるでしょう。

このギャップを埋め合わせをしながら、自らブラッシュアップ、スキルアップをするコミットをしながら、バイリンガルMCとして現場を全うするのか、

通訳者と司会者は、そもそも、その能力は全く違う、という解釈の元、日常会話レベルであればいいけど、、、、それ以上、公的な通訳は無理、とするのか、

その人それぞれの価値観や仕事に対するスタンス、バイリンガルの定義をどのようにとらえているかによって、大きく異なります。

どちらが正しい、という完全な答えはないように思いますし、どちらも有り、だと考えます。

その上で、私自身は、というと、吸収できうるものは全て「自らの糧」として吸収して、それを「生かしていく」ために、何が必要かを常に考えています。

TPOも当然、考慮します。

つまり、MCは現場では一匹狼で、単独で、孤独で、中立の立場でいる必要性があり、しかしながら、MCの出来栄えによって、そのイベントの成功度合いは大きく変わる、という非常にシビアなポジションに位置しているからにほかなりません。

バイリンガルの定義=「xxxxである」と固めてしまうことによって、融通が利かなくなる危険性もそこにある、という言い方もできます。

なので、私は、現場ごとに、その現場で何を要求されているのか、何が必要とされているのかを、瞬時に(または、担当者や主催者と話しをすることで)、つかみ取り、必要とされれば、出来うる対応を全て、惜しみなく提供します。それによって、ギャラが高くなる、という要求もしていません。

そして、MCとして生きている限り(女性は特に)、遅かれ早かれ、現場に立てなくなる時期が必ず到来します。MCは、やはりビジュアルが重視される業界でもあるからです。

私自身は、現在、その狭間にいる、といった年齢です。笑。

数年前からその予兆を自ら感じてきた私は、MCスタイルもそのころから少しづつ変化してきたように思います。そして、現在は、専門的な内容であっても、「通訳者」として仕事をアサインされた時には、「到底無理だろっ!」と思われるような業界であっても、貪欲に引き受けています。「完全に無理!」と思った時には、丁重にお断りしています。笑。

「到底無理かも!?」という感覚であれば、引き受けているのです。ある意味、非常に危険なチャレンジです。依頼主にとっても、危険です。しかし、通常、依頼主は、私のバイオ(プロフィール)を事前に見ています。その上で、依頼をしています。その時点で、依頼をした責任を引き受けたも同然なのです。そして、私も事前に業界、通訳するトピックについては知らされますが、細かい内容については、その瞬間まで分からない場合も多いです。事前に資料がもらえるケースばかりではありません。それでも、やるのです。

そのために、私が普段から心がけていること、それは、バイリンガルMCとして、企業のために能力提供をした際、例えば、金融コンファレンスをはじめ、様々な専門分野のコンファレンスやアントレプレナーによる新事業プレゼンテーションなど、どのような内容であっても、彼ら専門家から発せられる内容を、出来る限り、理解するように努めています。セミナーなどの場合、バイリンガルMCのお役目は、セミナータイトル、セミナー提供する方のご紹介、その他場内アナウンス、というのがほとんどで、セミナーそのものは同時通訳ブースがあり、MCとしては同時通訳はいたしません。なので、むしろ、セミナーに耳を傾け、脳内で、同時通訳がどこまでできるか、イメトレをするのです。と同時に、その専門業界について、覚えられる、理解できる保証はないけれど、できるだけ、聞き入る、理解をするように努める、ということをしています。

その結果、そこでほんのちょっぴりかじった知識が、現在、「到底無理かも?!」と思われる、通訳依頼で、実は役立っているのです。それこそが、「経験値」を「糧」にした証であると、私は考えます。

兄の手伝いで輸入車通関や予備検査などを手掛けていた時や車のオークションのナレーションをしていた時の名残で、自動車業界の通訳は専門家でないにもかかわらず、非常に楽ちんです。

医学業界のバイリンガルMCにも多く携わり、製薬会社でのバイリンガルMCにも携わってきた中で、父が癌で余命宣告を受けた時、その事実を父に知られないよう、父と共に診察室にいる際に、ドクターと英語で話をするように心がけていたこともありました。その結果、そうした経験値が全て、通訳につながっています。薬学、医学業界の通訳も依頼があれば受けます。薬から医療機器に至るまで。

それでも、失敗はあります。台本なし、進行なし、で挑んだ現場では、後日、主催者からフィーの支払いを渋られたこともあります。当然、そこには主催側に起因するMCの不出来が大きく関与しています。MCも通訳者も事前にどれだけ「適格な情報」を与えられるかが、成功の大きなカギになってくるからです。

それでも、私は、その状態で自分に足りなかったものは何なのか?フィーを渋られた理由は何だったのか?解明をしてゆき、自問自答をしました。何か月か経って、主催者から当時の動画を見ていたら、一生懸命場繋ぎをしてくれていた様子も伺え、感謝します、とメッセージが来ました。少しは救われた気持ちでしたが、それでも、やはり、ストイックに自問自答は続きます。

つい先日も、一つ返事で引き受けてしまった通訳の仕事では、「Sorry to tell you, but your translation was not accurate,too.」(申し訳ないけど、通訳も的確ではありませんでしたし、、)と、フィードバック中に指摘をされ、穴があったら入りたい気分でした。その現場も、事前資料は一切ありませんでした。ここ数年、表に出てきた分野の金融トピックで、担当者ですら、「この世界は非常にニッチなんだよ。誰も詳しくなんてわかっちゃいないよ」とフォローをしてくれましたが、自分としては、とても、とても、とても悔しい思いをしました。その後、すごい勢いで集中して、何を言わんとしているのか、スピーカーの意図をくみ取る、という作業、それを瞬時に言語変換するテクニックが要求され、逐次通訳ではありましたが、ほぼ同時通訳同等の経験値が要求された現場でした。

ここでも、私自身、自問自答を繰り返しました。悔しい想い、失敗をどれだけその後の「糧」にして培っていけるか、その姿勢が、自らの能力向上に大きく貢献していく、自らを創造していくと、私は信じています。見つめる先は、他者ではなく、常に「自分」であるべきだと。それが、自分にとって、理不尽で不利な状況であったとしても、「仕方ない」で終わらせないド根性。これが、その先の仕事につながっていく、その先の自分のブラッシュアップにつながっていく、そう信じています。

バイリンガルMCとしての依頼がなくなったときが引退の時である、と自分では決めています。その時になって、「さて、どうしよう」では遅いのだ、ということも実感しています。ですから、ビジュアル重視でなくても継続して、現場に立てる可能性がある通訳者としての地位を確固たるものにすべく、そして、その能力を現在、バイリンガルMCとして現場に立つうえで、惜しみなく提供し、また、積極的に配慮をしながら提案もしています。

これからの「バイリンガルMC」に対する要望は、このようにどんどんと、そのスタンダードはますます高くなってくる時代です。すでにその時代は、到来しています。

日本語と英語の原稿をきれいに読んで進行できる「だけ」のバイリンガルMCは、遅かれ早かれ淘汰されていきます。生き残っていくために、どれだけ自らが日々精進し、向上してゆけるか、それが問われています。

更に言うと、バイリンガル=バイカルチュアル、である必要性もあります。この点は、私が知る限りのバイリンガルMC現役の皆さんは、意外にごっそり抜け落ちています。しかし、言語だけではなく、文化的な価値観においてもバイカルチュアルであることは、本当の意味でバイリンガルMC、通訳者としての任務を全うできる、キーでもあります。

フリーランスで生計を立てている方の場合には、その登竜門を必ずや、クリアせねばなりません。

バイリンガル、の定義、というタイトルで書き綴ってきたつぶやきブログですが、私が思う、バイリンガル。それは、やはり、「バイリンガルに関することは(通訳も含めて)全面的にサポートをする」これに尽きるかな、と感じています。結局、そうすることによって、イベントは成功に導かれるからです。

そして、常に精進。己を見つめ、自分を理解し、地に足をつけて生きていく姿勢、これはMCという立場で業務を行う時にも必ず、無意識のうちにMCに反映されます。だから、本当に自らと向かい合って生きていくことが、MCの質に大きく比例して影響を受けるのです。

これからバイリンガルMCを目指そうとしている皆様、現役のバイリンガルMCの皆様、どうか、MCだから通訳は必要ない、通訳専門ではないからできない、で現場をスルーせずに、ぜひ、自らに問いかけ、精進し、10年後、15年後の自分がどこにいるのか、何をして生きているのか、自問自答してみてください。

逆に、通訳者も淘汰される時代がすでに何年も前から到来しています。よりアクティブなコミュニケーションを展開できる通訳者が求められています。コミュニケーション能力だけではなく、聞き取りやすい活舌、発音、表情、スピーカーと一心同体になれる通訳者が生き残っていく時代はすでに現場で発生しています。

人生は生涯、学びです。

年齢関係なく。

だからこそ、常に自分とどれだけ真摯に向き合えるか、

それが、とっても生きていく上においても大切なことだと痛感しています。

そのすべては、バイリンガルコミュニケーターとして、活かされていきます。バイリンガルMCも然り。

自らへの自戒も込めて。記録として綴ってみました。